ばかの学習帳

(ばかが)学びのアウトプットと文の練習とカタルシスのために

【読書】すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論

 久々の投稿となってしまった。

 Kindleと速読の意識のおかげで格段に読書量が増えたものの、アウトプットをサボってしまっていた。

 つい先日まとまって読書をする時間があったため、一気読みした本のことを書いた。自分の思いもたくさん書いた。これからの指針となるような記事になったと思う。

 

 

 

 

 いつものように堀江氏の本のタイトルは意図的にやや過激なものになっている。

 本書の帯にはこんな文句が書いてある

義務教育の「常識」を捨てろ!

「好きなこと」にとことんハマれ!

 私は普段から堀江氏のTwitterや、YouTubeの『ホリエモンチャンネル』などで彼の発信する考えを拝見しているため、本書のような脱・義務教育論は頻繁に目にしている。本書は彼が初めて教育についての考えをまとめたものだ。

 

学校は「使いやすい労働者」を大量生産する工場

 学校はそこに通う人間を、とにかく規格どおりにしあげようとする。建前上は「個性を大事に」「のびのびと」などと言うものの、その裏にはいつも「常識の範囲内で」という本音が潜んでいる。

 学校は子供たちに同じテキストを暗記させ、同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。

赤点をとったり、問題行動を起こしたりする子どもは、どうにか「規格内」に収まるように尻を叩く。

そして、社会に納品する。学校で押し付けられるのは、時間割の厳守、全体行動、一方的な評価、ボス=教師への服従だ。

私たちは当たり前のように学校に通い、当たり前のようにこれをこなそうとしてきたため、改めてこれを疑問視したりすることはあまりなかったかもしれない。

 学校はそうして「常識」を叩き込むに洗脳機関として十分に機能していたといえる。

日本人は、両親や教師から「いい大学に入りなさい」「安定した職につきなさい」「学校で落ちこぼれないようにしなさい」「みんなに合わせてはみ出ないようにしなさい」と指導される。

いい大学、会社に入ることが幸福へのプラチナチケットであり、逆にここを逃せば、そのあと巻き返しのチャンスはないと繰り返し諭される。

 しかし現在、「いい大学からいい会社ににはいる」だけでは幸せになれないないと、誰もが実感している。

幸せの形に「正解」がなくなったのだ。もはや、学校で「1つの常識」を教え、「1つの教科書」を与えていれば間に合う時代ではない。2016年に、東大卒の、一流高広告代理店と言われる電通の女性社員が過労自殺した事件が代表的な例だ。

 

学びとは「没頭」だ

今を生きる人たちが向き合うべく課題は、「いかに良い大学に入るか」ではなく、「いかに社会的身分を手に入れて他者から評価されるか」ではなく、

「いかに自分だけのこうふくを見つけ、追求するか」

なのである。国家が設定したロールモデルをなぞるのをやめ、自分だけの幸福を追求する。それは敷かれたレールに乗るのを拒否するということだ。

 では、レールをそれた人間はどうするのか。それは、自分で行きたい方向を決め、ある時は徒歩で気楽に、ある時は自動車で軽快に、ある時はヘリで豪快に、そこへ向かうのである。

 何のために何をするのか、どんな風にするのか、全てを自分で決め、自ら責任を負いながら突き進む力、新しい時代を楽しく生きるために必須のこの能力を、「没頭する力」と呼ぶ。

 私は、今でも自分が何をやりたいのか、何になら夢中になれるのかがハッキリわからない。所謂「自分探し」状態だ。

それは、何にも没頭できていないからだ。しかし、没頭する対象はその気になればいくらでも見つかると堀江氏は言う。

ただ自分にブレーキをかけているだけだと。それは学校でそう洗脳されたからだと。学校では子どもたちに、あの手この手で欲望にブレーキをかけさせる。そして急ブレーキによってエンストを起こさせるようなこの介入のことを、傲慢にも「指導」などという。

 

ブレーキの解除方法とは

 自分で行き先を決め、アクセルを踏む生き方をするためには、「学び」が不可欠だ。堀江氏がいう「学び」とは没頭のことだ。学校教育に準じたお勉強ではなく、

もっと能動的で、カリキュラムも正解もなく、楽しく、人生の全てで営まれていくものだ。

 今学問とされている領域だって、初めは「誰かの没頭体験」だったはずだ。詳細な教科書や暗記するべきこうしきが人類に用意されていたわけではない。

その歴史を遡った時に現れるのは、「それに没頭してしまった誰かの姿」だ。彼らはお勉強をしていたわけではない。

ただ目の前にあった興味にのめりこんでいただけだ。新しい知を切り開き、新しい仕事を生み出し、未来へと突き動かす本当の学び、没頭のなかにこそあるのだ。

 

 「バカ」になれば教養もついてくる

 これからの時代はオールBで教師や社会の評価を受ける人材よりも、際立った特長をもつ「専門バカ」のほうが生きやすくなる。

なぜならオールBの代わりはいくらでもいるが、「専門バカ」の代打が務まる人材はなかなかいないからだ。もちろん幅広い教養は必要だ。

今の時代を生きるのに持っていたほうが良いスキルや知識は当然存在する。その持ち合わせがない人は、ある人に比べて、圧倒的に社会的リスクは高い。

 しかし、その教養は、学校で偉い人から教わるものではなく、それぞれがすきなことをしていく中で、必要なタイミングで身に付けるものだ

今はネットを使えば大抵の調べ物や勉強はできる時代だ。学校を順当に卒業しなければ身につかない教養など、もはや存在しない。好きなように生きて、わからないことがあったらその都度調べる、で十分だ。

 私は中学、高校、成人するくらいまで、まがうかたなき「バドミントンバカ」であった。あの頃は暇さえあれば、国内国外、地方大会から世界選手権までの結果を閲覧し、記録し、選手のブログを探し読みふけり、他にないバドミントン情報サイトを運営していた。確かにあの頃は、とことん没頭していて、その成果として、バドミントン協会からリンクを貼ってもらったり、関係者のサイトで紹介してもらったりしていた。バドミントン協会に何の繋がりもなく、選手として全く芽が出なかった個人としては異例のことだったと思う。私ほどバドミントンの情報だけにのめり込んでいた個人はいなかったのではないかと真剣に思う。その体験は私を無教養にしたか?まったくそんなことはない。自ら情報を収集し、まとめ、記事にして発信する。ノンプロの企業スポーツの問題点や、組織の運営方法などについての理解が深まった。

 

没頭は「特殊な特権」ではない

 没頭する力は、誰にでも備わった普遍的な力である。

人は誰も、子ども時代は「没頭の達人」だったはずだ。子どもは大人にとってはちっとも面白くないことを何十分でもやり続ける。

子どもが特殊なのではなく、これが人の「通常モード」なのである。ただほとんどの人は、成長の過程で没頭を押し殺し、いつしか没頭そのものを忘れてしまうのである。

そのきっかけを作るのは親だ。

 

 部屋や服を汚したり、遊びに夢中になっているといった幼児の行動を、親は一日中制止し続ける。

もちろん、子どもが危険に及ぶような行為は止めなければならない。しかし、ほとんどの親は、行動を管理する延長で、ある程度大きくなった子供にまで「これをしちゃいけません」という禁止シャワーを浴びさせたがる。

あとは学校での禁止シャワーで仕上げれば、「自称凡人」の誕生だ。「そうか、やりたいことをし続けるのはダメなことなんだ」と思いこむようになる。

おそらく、そうやって可能性を潰されたまま大人になった人が、社会には溢れているのだろう。

 「しつけ」や「教育」という建前で子どもの没頭を邪魔する親が減れば、やりたいことが見つからない「自分探し」に苦しむ人が減るはずだ。

 しかし、親に、教師に否定されてきた過去があろうとも、いつだって挽回のチャンスはある。没頭する力は人間に標準的に備わっているものであって、枯渇したりはしないのだ。

 一旦何かにのめり込んでしまえば、過去浴びさせられた否定のことなんかどうでもよくなる。だから、没頭しないことを才能や環境のせいにしてはいけない。

 過去を嘆くのではなく、今この瞬間から、没頭に向けての一歩を踏み出そう。何も難しいことはない。

 

 没頭で食って行けるか?

 「ただ好きなことをやっていても、仕事をして食っていけなきゃしょうがないじゃないか」そんなことを言う人が当然いるだろう。

「好きなことはしないで、やりたくないことを我慢して給料をもらうことが美徳」そういった考えの人は大勢いるだろう。当然、そういった人たちは学校教育の中で、うまく洗脳されて作り上げられた労働者だ。

 

「子どもがサッカーに夢中で、サッカーの強い高校に行きたいと言います。でもJリーガーになれる人はごく一部だし、できれば普通の進学校に進んで勉強してほしくて…。」

 

こういった悩みは誰もが聞いたことがあるだろう。所謂、「好きなことだけじゃ食っていけない」問題だ。

 しかしこの質問者の、「サッカー選手になれる確率は低いのだから、サッカーにハマるのは無駄だ」ともとれる発言の裏を返せば、「サッカーをやるからには、サッカー選手にならなければならない」という謎の強迫観念に囚われているということだ。まさに用意されたレール式の発想である。

 もしかしたら彼は、途中でサッカーグッズの開発に興味を持つかもしれない。

サッカー漫画にハマって漫画家を目ざすかもしれない。

サッカー部で出来た友達と何か関係ない仕事を始めるかもしれない。

10年後にはサッカーにまつわるビッグビジネスが生まれており、彼のスキルがたまたまそれに生きるかもしれない。

 こんな想像は、いくらしてもきりがない。それだけ可能性はあり、どれか1つの可能性を取り上げて、それを理由にやるやらないの選択を下すのも馬鹿馬鹿しい。

 そもそも「仕事につながる趣味」などこの世界にほとんど存在しない。誰かが自分の没頭の中からつかみ出したものが、仕事になったり、お金になったりするだけなのである。

逆算して、「これに没頭すれば大人になってから得をするぞ」などという計算をすればするほど、人の可能性は狭まっていくと思っている。

 

職場もまた、洗脳機関である

 いくら「学校はいらない、学校教育はおかしい」と主張してみても、もう大人たちは学校を卒業している。学校による洗脳骨の髄まで染み渡っている。

そうした大人たちが洗脳から抜け出すにはどうしたらいいのか。

 答えは1つ。学校と直結した洗脳機関である、「職場」との関係性を考え直すことだ。

 春の一斉入学と全く変わらない、春の新卒一括採用。

学ランやセーラー服の代わりに制服が支給される。または動きにくいスーツを着る。

遅刻早退は厳禁で、業務中にはどんなに暇であっても、仕事してる風を装わなければいけない。

教師が教室を見渡していたように、管理職がオフィスの全体を見渡す。

先輩後輩があり、たった一年入社が早いだけで先輩風を吹かせてくる。

修学旅行、学校祭と同じように、慰安旅行だの忘年会だの、避けられないイベントも目白押し。

 こうした習慣の無意味さ、息苦しさは私も日々の業務の中で痛感しているところだ。しかし、子どもの頃に「あんなに嫌いだった学校を辞める」という選択をしなかったように、「会社を辞める」という選択ができない。職場に縛られ、嫌な出来事や人間関係

、くだらない習慣ややりたくもない仕事を作り笑いでやり過ごすことを日常としてしまっている。

 職場とは、人が仕事をするために存在する場所のはずだ。そしてスタッフは、そこで何を生み出し、何を世に送るかで評価されるべきだと思っている。しかし、軍隊のようなこの組織では、「仕事で評価する」という考え方自体存在しない。たまに、「評価されること」=「上司にほめられる。認められること。」だという人がいるが、それはいよいよヤバい考え方だ。

思いきり組織に洗脳されてしまっている。そんなことのために働いているはずではないはずだ。

 もはや組織の目的が、「仕事」ではなく「秩序」の維持になってしまっていることが問題なのだ。私たちが、「月曜が憂鬱だ」「宝くじがあたったらこの会社をやめたい」などと思うのは、秩序のための労働であり、軍隊の行進練習のようなものになっているからだろう。

 つまり、職場に行きたくない私たちは、働きたいのではなく、単に退屈しているのである。そこが私たちを「働かせてくれる」職場でないのなら、反逆者になることを恐れず脱出するべきだと堀江氏は言う。

 

ワークライフバランスなんて気にするな

 仕事とプライベートを切り分けましょう、もっと家庭や余暇を大切にしましょうというスローガンは立派だが、現実は「放課後を待ちわびる劣等生」に極めて近い。職場や仕事を「嫌な時間」としか見ない人の発想だ。私も間違いなくこちら側の人間だ。

 しかし、本当に大事なことは、バランスなのだろうか。人生の30%を仕事に30%を趣味に、30%を家庭に費やすようなエネルギーを割り振りを考えているような人生が、本当に楽しいのだろうか

 こんな分け方よりも、「やりたいこと」「やりたくないこと」という2つの区分を持つことの方が重要だ。この二択なら迷うまでもなく、やりたいことだけに全力投入すればいい。やりたいことで人生を100%埋め尽くせるなら、それが一番いい。

 人生なんて偏っていていい。極端でいい。その許可を自分にだせば、生きるのがもっと楽に、楽しくなる。

 

終わりに

 この本を読んで、もしく私のこの記事を読んで

「なるほど!確かにそうだ!」と理解、共感したとしても、それを行動に移せる人はほとんどいないだろう。それほど、教育の洗脳というものは根深いものだと、私自身思い知らされた。

 しかし、やりたいことか否かの二分化の考え方はさっそく取り入れて実行したい。それが人生を豊かにすることは明確だ。人生は短い。やりたくないことに時間を使っている暇など全くないのだ。

 未来に何が起こるかもわからない。絶対安定と思われているような今の会社だって、将来にはどうなっているかわからない。15年前、15年後の今のことを誰が想像できただろうか。それほど社会は目まぐるしく変化していく。今ある当たり前は10年後にはきれいサッパリなくなっているかもしれない。

「あの頃は自分でハンドル回して車運転してたよねwww」みたいな笑い話だって遠い未来のことではないはずだ。

 常に未来志向で、今を生きる。それがこれからの目標だ。大事なのは今であり、過去じゃない。今を大事に生きることは未来を大事にすること。そのために何ができるか、思いを巡らせ、実行したい。実行する者だけが、夢を実現して幸せになれるのだ。